歴代誌第二9章
9:1 ときに、シェバの女王は、ソロモンの名声を聞いたので、難問をもってソロモンを試そうと、非常に大勢の従者を率い、バルサム油と多くの金および宝石をらくだに載せて、エルサレムにやって来た。彼女はソロモンのところに来ると、心にあることをすべて彼に問いかけた。
9:2 ソロモンは、彼女のすべての問いに答えた。ソロモンが分からなくて、彼女に答えられなかったことは何一つなかった。
本章は、比喩的な位置付けとしては、いわゆる新天新地において、諸国の王たちが主に栄光を帰するために主のもとに集うことを表しています。
黙示録
21:24 諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。
21:25 都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。
21:26 こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。
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諸国の民と地の王たちは、都の構成員ではありません。都を構成しているのは、イスラエルと集会です。諸国の民と王は、その栄光と誉れを携えて都に来ます。彼らは、都の光によって歩み神の御心に適う歩みをすることで、神の栄光を現し、その栄光を捧げものとして携えてくるのです。それが神に栄光を帰するからです。シェバの女王は、その一人として取り上げられています。具体的にどのように栄光を帰するかを一例として示すためです。
彼女がソロモンを試したのは、彼の知恵を知るためです。ソロモンは、解き明かすことができないものはありませんでした。全てをご存知であるということです。この知恵は、単なる知識ではありません。これは、箴言で示されているように、受けた神の言葉を分別し従う能力と言えます。彼女は、主を信じていた人です。彼女がソロモンを訪ねたのは、主の名に関連してであって、彼女は、主に従うことに強い関心があったのです。ですから、質問は、知識ではなく、神に従う知恵に関するものです。
9:3 シェバの女王は、ソロモンの知恵と、彼が建てた宮殿と、
9:4 その食卓の料理、列席の家来たち、給仕たちの態度とその服装、献酌官たちとその服装、そして主の宮に上る階段を見て、息も止まるばかりであった。
彼女が驚いたものがここに示されています。
知恵は、神の言葉を分別する能力です。イエス様ご自身は、神の言葉を受け、それに完全に従われた方です。
彼が建てた宮殿は、主のみ住まいとしての集会を表しています。それは、レバノンの森の宮殿とも言われ、主イエス様に似た信者から構成されています。
食卓の料理は、彼女を満たすものを表していて、主イエス様が私たちを満たしてくださる方であることを表しています。
家来や従者たちの態度は、聖霊によって変えられた信者の性質を表しています。そして、その服装は、イエス様を表す行いです。
献酌官たちは、イエス様に栄光を捧げる信者を表しています。
主の宮は、この場合、父なる神様の御住まいを表しています。そこに登る階段は、イエス様が父なる神様に払われた敬意の偉大さを表しています。宮に登ることの尊さがその階段によって示されているのです。
息も止まるばかりであったことは、彼女の想像をはるかに超えた驚きであったからです。
9:5 彼女は王に言った。「私が国であなたの事績とあなたの知恵について聞き及んでいたことは、本当でした。
彼女は、自分の国でそれを聞いていたのです。それは、今日、信者が御言葉によって知ることです。その知らされていたことは、間違いのないことであったのです。
9:6 私は自分で来て、自分の目で見るまでは、彼らの言うことを信じなかったのですが、なんと、私にはあなたの知恵のすばらしさを半分も知らされていなかったのです。あなたは、私が聞いていたうわさを上回る方でした。
彼女は、自分の思いを超えたことを信じませんでした。まさかそのようなことはないと考えたのです。これは、私たちが、御言葉の示されていることをそのまま信じない不信仰を教えています。イエス様の栄光の全てについて、御言葉から示されていることをそのままに受け入れない場合があるのです。
しかし、彼女は、実際それを見たとき、息も止まるばかりになりましたが、それは、彼女の考えをはるかに超えるものでした。
9:7 なんと幸せなことでしょう。あなたにつく人たちは。なんと幸せなことでしょう。いつもあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くことができる、このあなたの家来たちは。
彼女は、王の前に立つ人たちの幸せについて言い表しました。それは、その知恵を聞くことができるからです。知恵は、神の言葉を分別する能力です。彼女の関心は、そこにありました。
その知恵については、彼女がソロモンの事跡について、知らされていたように、今日、御言葉によって知らされています。私たちが、聖書の言葉によってその知恵を学ぶことは、シェバの女王が切に望んだことの実現であるのです。
9:8 あなたの神、主がほめたたえられますように。主はあなたを喜び、その王座にあなたを就かせ、あなたの神、主のために王とされました。あなたの神はイスラエルを愛して、これをとこしえに確立されたので、あなたを彼らの上に王として与え、公正と正義を行わせるのです。」
そして、神の民としてのイスラエルの幸いを言い表し、その王として、ソロモンが立てられていることの幸いを言い表しました。そのような神様の恵みを褒め称えたのです。
イエス様が王として立てられていることは、非常に幸いなことであるのです。
9:9 彼女は百二十タラントの金と、非常に多くのバルサム油と宝石を王に贈った。シェバの女王がソロモン王に贈ったほどのバルサム油はかつてなかった。
シェバの女王がソロモンに送った物は、ソロモンの栄光にふさわしい物です。その贈り物は、霊的比喩になっています。金は、義を表しています。それは、イエス様が歩みを通して現された義です。その量が百二十であることは、十二が基本数になると考えられますが、神の支配を表しています。イエス様の歩みは、神の支配のもとになされたのであって、神の御心だけを行われました。
バルサム油は、注ぎのの油を作るための材料である「香料」がこれと同じ言葉で、欽定訳では、香料の意味で訳されています。これは、イエス様が神の前に放たれた香りを表すものでもあります。これは、神の前に良い香りを放つ歩みをすることを表してます。
出エジプト
30:23 「あなたは、最上の「香料」を取れ。液体の没薬五百シェケル、かおりの強い肉桂をその半分——二百五十シェケル——、におい菖蒲二百五十シェケル、
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バルサム油は、樹液から取られる樹脂のことで、液状ではなく、固くなり、香として炊かれます。これも、信仰者が神に対して香を捧げて礼拝することを表しています。この香は、神様が指定した香ではなく、信仰者の歩みを通して現される香を表しています。神様が指定した香は、キリストの栄光を表しています。この香は、シェバの女王自身が用意した香りです。マリアやもう一人の無名の女が捧げた香油のように。
ヨハネ
3:34 神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。
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また、宝石は、神の栄光を表しています。イエス様は、その歩みを通して神の栄光を現されました。
ヨハネ
17:4 あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。
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9:10 また、オフィルから金を運んで来たヒラムのしもべたちとソロモンのしもべたちは、白檀の木材と宝石を運んで来た。
9:11 王はこの白檀の木材で、主の宮と王宮のための通路を造り、歌い手たちのための竪琴と琴を作った。かつてユダの地で、このようなものが見られたことはなかった。
その僕たちがもたらした物は、イエス様のしもべとしての信者がイエス様に栄光を帰したことを表しています。金は、彼らの歩みによる義です。信者が義であることは、イエス様に栄光を帰すことになります。
白檀の木材は、主の宮と王宮への大路と関連づけられていて、しもべの歩みが、イエス様に向いていたことを表しています。また、その木は、楽器とも関連付けられていて、神様への賛美を表しています。楽器は、賛美の時に奏楽されるために作られたのです。
そのように、しもべの歩みと、賛美により、イエス様に栄光が帰せられたのです。
9:12 ソロモン王は、シェバの女王が王のもとに携えて来た物以外のもので、彼女が求めたものは何でもその望みのままに与えた。彼女は家来たちを連れて、自分の国へ帰って行った。
ソロモンは、彼女が求めたものは、何でも望みのままに与えました。これは、私たちが祈る時に、求めることは何でも叶えられることを表しています。
ヨハネ
14:13 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。
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9:13 一年間にソロモンのところに入って来た金の重さは、金の目方で六百六十六タラントであった。
ソロモンのところに入ってきた金は、イエス様に帰せられた義の行いによる栄光を表しています。その量は、人を表す数です。これは、人が義を現すことで、イエス様に栄光が帰せられることを表しています。
9:14 このほかに、隊商や商人たちが携えて来たものがあった。アラビアのすべての王たち、およびその地の総督たちも、ソロモンのところに金や銀を携えて来た。
商人は、イエス様からその働きを委ねられた者たちを表しています。福音書には、ミナの例えと、タラントの例えが記されています。そこで、働きを委ねられたしもべたちがしたことは、商売です。この商人がもたらした物は、彼らの働きの実を表しています。
王と総督は、ソロモンの支配の下に、治めることを委ねられた者たちです。彼らがもたらしたのは、監督によって治められる者たちの金によって表されている義の実であり、銀によって表されている贖いの実です。
これは、集会の伝道の働きによって人が救われ、その監督により、信者が霊的成長を遂げ義の実を結ぶことを表しています。それによって、イエス様に栄光が帰せられます。
9:15 ソロモン王は、延べ金で大盾二百を作り、その大盾一つに六百シェケルの延べ金を使った。
盾は、守りのための戦いの道具です。それに金が使われたことは、義を表しています。義を攻撃するのは、悪魔です。しかし、信仰の大盾は、それを防ぎます。六百は、百の六倍数で、聖別ということが百によって表され、六は人を表しています。これは、人の義です。一人一人の歩みの中に現される義です。人が聖別されて、義のうちを歩むことを表しています。
その数二百は、聖別を表す百が二つです。二は、証しを表しています。それがレバノンの森の宮殿と言われるソロモンの宮殿に置かれたことは、それがイエス様の栄光になっていることを表しています。信者の義は、その時、イエス様の栄光として証しをするのです。
9:16 また延べ金で盾三百を作り、その盾一つに三百シェケルの金を使った。王はそれらを「レバノンの森の宮殿」に置いた。
三百は、百が三で、百は、聖別、三は、神の完全さを表しています。盾の金は、信者の義を表しています。ですから、これは、信者の義が完全なものであり、聖別されていることを表しています。
一つ一つの盾に使われている金の量も完全な義による聖別を表しています。
御心を行うことで完全な義を表し、聖別されることで、イエス様の栄光が現されます。それが信者に求められていることであり、イエス様は、完全な模範者としてそれを現されました。
9:17 王は大きな象牙の王座を作り、これに純金をかぶせた。
象牙は、高価なものとして示されています。それは、タルシュシュから運ばれました。そして、雅歌書では、それが王の体を表す比喩として歌われてますが、イエス様の御体を表しています。その御体は、象牙が高価な貴重なものとして扱われたように、尊いものです。
ヘブル
9:11 しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、
9:12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。
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その御体は、罪のない完全なものでした。それは、偉大であり完全でした。しかし、その御体は、罪ために裂かれたのです。
純金は、神の神聖を表しています。神としてのイエス様の栄光が示されています。罪の贖いのためにもたれた体は、御本質において神です。神が命を捨てたのです。
雅歌書
5:14 その腕は、タルシシュの宝石をはめ込んだ金の棒。からだは、サファイヤでおおった象牙の細工。
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雅歌書にも体が象牙の細工であることが歌われてます。その象牙は、サファイヤで覆われました。サファイヤは、神のおられるところを表し、青い色とともに神を表すものとして示されています。偉大な完全な御体を表し、ご本質において神であることを表しています。
出エジプト
24:10 そうして、彼らはイスラエルの神を仰ぎ見た。御足の下にはサファイヤを敷いたようなものがあり、透き通っていて青空のようであった。
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9:18 王座には六つの段があり、その王座には金の足台が取り付けられていた。座席の両側には肘掛けがあり、その肘掛けのわきには二頭の雄獅子が立っていた。
王座の六つの段は、人としてのイエス様を表しています。金の足台は、人としての歩みの中で示された主イエス様の義を表しています。
二頭の獅子は、王としてのイエス様を表しています。
9:19 また、十二頭の雄獅子が六つの段の両側に立っていた。このような物は、どこの王国でも作られたことがなかった。
十二頭の獅子は、神の支配のもとにある王を表していて、イエス様は、王ですが、神の支配のもとにある方としてことをなさることを表しています。
9:20 ソロモン王が飲み物に用いる器はすべて金であった。「レバノンの森の宮殿」にあった器もすべて純金であった。銀は、ソロモンの時代には価値あるものとは見なされていなかった。
直訳としては、「レバノンの森の宮殿にあった器物もすべて純金であった。銀は、なかった。銀はソロモンの時代には、特別なものとはみなされていなかった。」「価値がない」は、意訳です。価値がないわけではなく、溢れていたということです。
これは、器が純金によって表されているように、神聖ということを表しています。その時には、銀によって表されている贖いということは、当たり前のこととして存在していることを表しています。
ゼカリヤ
14:20 その日、馬の鈴の上には、「主への聖なるもの」と刻まれ、主の宮の中のなべは、祭壇の前の鉢のようになる。
14:21 エルサレムとユダのすべてのなべは、万軍の主への聖なるものとなる。いけにえをささげる者はみな来て、その中から取り、それで煮るようになる。その日、万軍の主の宮にはもう商人がいなくなる。
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これは、新天新地の預言です。この章の前半では、艱難時代とそれに続くいわゆる千年王国について預言されていて、後半は、エルサレムが攻撃され、その後の世界について示されています。ここでは、その時、皆聖なるものとなることが示されています。そして、宮にカナン人がいなくなります。これは、異邦人のことで、神の民でないことを表しています。これは、比喩で、十三章九節には、「13:9 わたしは、その三分の一を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは「これはわたしの民。」と言い、彼らは「主は私の神。」と言う。」とあるように、残った人類は、神のものとされます。異邦人も神の民となるということです。ですから、贖われていない民は、いなくなるということです。
9:21 王にはヒラムのしもべたちを乗せてタルシシュへ行く船があり、三年に一度、タルシシュの船が金、銀、象牙、猿、孔雀を運んで来たからである。
その理由について示されていて、王が船によってそれらを運んできたからです。そこには、他の貴重なものもありました。王の元に、価値あるものがもたらされたことを表しています。
9:22 ソロモン王は、富と知恵とにおいて、地上のどの王よりもまさっていた。
その時、イエス様は、すべての者の上に立たれます。富と知恵がまさった方としての栄光を受けなさいます。その富は、犠牲を払われて誉れとして受けられた富であり、知恵は、神に従った知恵です。
9:23 地上のすべての王は、神がソロモンの心に授けられた知恵を聞こうとして、彼に謁見を求めた。
そして、神の言葉に従われた知恵は、すべての人の関心事であるのです。人は、それを聞くことを望みました。それは、今日の私たちの最大の関心事でもあります。
9:24 彼らはそれぞれ贈り物として、銀の器、金の器、衣服、武器、バルサム油、馬、ろばなどを、毎年携えて来た。
ソロモンに対する贈り物は、贖いを表す銀の器、義の実を表す金の器、聖霊を表すバルサム油です。馬は、戦いのための力、騾馬は、荷物を運ぶ力を表していて、信者の働きと関連づけられています。それらのすべてが、イエス様に栄光を帰するのです。
9:25 ソロモンは馬と戦車のための厩舎を四千、および騎兵を一万二千持っていた。彼はこれらを戦車の町々、およびエルサレムの王のもとに配置した。
厩戸戦車の数四千は、四つの千です。千は、牛の頭を表す語で、しもべとして従うことを表しています。四は、あらゆる方面を表していて、あらゆる点においてしもべとして従うことを表しています。
そして、騎兵の数一万二千は、二と十の千です。には証しを表し、十は、到達することでの完全さを表します。しもべとして従い、証しを立てます。そして、完全さに達します。
9:26 彼は、あの大河からペリシテ人の地、さらにエジプトの国境に至るすべての王を支配下に置いた。
その時、主は、王の王となられます。
9:27 王はエルサレムで銀を石のように用い、杉の木をシェフェラのいちじく桑の木のように大量に用いた。
銀は、贖いを表していて、杉は、主イエス様を表しています。石は、教えを表しています。いちじくは、結ぶ実を表しています。
贖われた者としての歩みがどこでも見られるのです。石は、教えを表していますが、教えに適った状態が溢れているのです。そして、イエス様の栄光を現す実が豊かに結ばれていることを表します。
ヘブル
8:10 (それで)これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである。──主のことば──わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
それで、新しい契約は、主の律法をイスラエルの人々の「思い」の中に置きます。この「思い」は、神の言葉を受け入れ従う判断をします。論理的思考をする部分です。ここに神の言葉を受け入れないと、神の御心を行うことはありません。そして、「心(複数)」の上に置きます。心には、霊、たましい、その他の座があります。それが全て御言葉の下に置かれます。書き付けることで、全ての判断や行動の基準が御言葉の教えになります。
そのような時、もはや肉に従ったり、内住の罪によって主に従うことができないようなことはなくなるのです。これが、今日の私たちに与えられている契約です。ここでは、将来贖われたときにそうなること示しているだけでなく、今日の私たちのことです。新しく生まれ、御霊によって歩む者のうちに実現することなのです。もちろん肉が現れれば、それは台無しになりますが、信仰によって実現することなのです。このように、イスラエルが神の契約を守らなかったことと対比されて、新しい契約では、神の言葉が思いと心に置かれ、神の御心とおりに歩むようになるのです。
主が彼らの神になることは、彼らが主に完全に従うことを表します。また、主の民となることは、主の価値あるものとされる祝福を表してます。
・「思い」→神の言葉を受け入れて従う分別としての知恵。
・「心に」→心(複数)の上に。
8:11 彼らはもはや、それぞれ仲間に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、小さい者から大きい者まで、わたしを知るようになるからだ。
全ての者が主を知るようになります。それは、全ての人が神の御心を完全に行うようになるからです。それが主を知ることです。実体験として御心を行い、主と同じ歩みをし、主を具現化することです。
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9:28 馬は、エジプトおよびあらゆる国々からソロモンのもとに運ばれて来た。
馬について再び記されています。それらは、諸国から運ばれてきました。そのことは、諸国の民が主のために力を捧げることを表しています。
9:29 ソロモンについてのその他の事柄、それは最初から最後まで、『預言者ナタンの働き』、『シロ人アヒヤの預言』、および『先見者イドが見たネバテの子ヤロブアムについての幻』に確かに記されている。
9:30 ソロモンはエルサレムで四十年間、全イスラエルの王であった。
9:31 ソロモンは先祖とともに眠りにつき、人々は彼の父ダビデの町に彼を葬った。彼の子レハブアムが代わって王となった。
治世における四十は、ダビデの治世がヘブロンでのユダの統治の七年とエルサレムでの全イスラエルの統治の三十三年に分けられているように、神様の御心による支配の時を表しています。ソロモンの治世が、神様の御心による支配の時であることを表しています。